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九鬼周造
「偶然と運命」
底本:菅野昭正編『九鬼周造随筆集』岩波文庫、1991
入力校訂:ピュシス
偶然という問題は日本では一昨年の言論界で流行したが、世界の思想史上では二千年以上も前からの問題で、一時の流行とは無関係である。
あることもないこともできるもの、それがめったにないものならばなお目立ってくるが、そういうものがひょっこり現実面へめぐり合わせたのが偶然である。
そうして人間の生存に至大な意味をもっている偶然を特に運命と呼ぶのである。
今日の講演では偶然の三つの性質を挙げて説明したあとで、運命の意味にも言及したいと考えている。
「偶然と運命」という題で、お話いたすのでありますが、まず偶然とはどういうものであるかということから先にお話をしようと思います。
日本で新聞や雑誌で偶然ということがしきりに問題にされたのは今からいえばもう一昨年でありまして今では誰もあまりそんな問題を顧みない、という風であります。
しかし、この偶然という問題は決して一時の流行とか何とかいうような性質のものではないので、その証拠として、古くはインドでは紀元前五世紀のマッカリ・ゴーサーラ(Makkhali Gosála)あたりが偶然を問題としていたのでありますし、中国では東漢の王充が問題としていましたし、ギリシアではアリストテレスが問題としていたのであります。
昔から今に至るまであるいは表に出たりあるいは裏にかくれたりして常に思索の対象となっているのであります。
一時だけ流行してあとはすたれてしまうというような問題ではないのであります。
それならば偶然とはどういうものであるかといいますのに、偶然ということには三つの性質があるように思われるのであります。
第一に何かあることもないこともできるようなものが偶然であります。
第二に何かと何かとが遇うことが偶然であります。
第三に何か稀にしかないことが偶然であります。
まず、第一の性質である、何かあることもないこともできる、ようなもの、ということから考えてみるならば、必ずあるという必然的なことでもなければ、決してないという不可能なことでもなく、あることもないこともできるというところが偶然にはなくてはならないのであります。
サイコロを墨壺の中へはめてどの面もすっかり真っ黒にしてしまって、それを振って黒い面が出てもそれは必然的なことで偶然ではないのであります。
またその場合、白い面が出るということは不可能なことであって偶然起こり得るようなことではないのであります。
こんどは墨壺へはめない普通のサイコロを振って三なら三が出たとすれば我々はそれを偶然と考えるのであります。
三が必ず出るという必然性もないし、三は決してでないという不可能性もない。
三が出ることも出ないこともあり得る。
出ることも出ないこともあり得るものが出たからそれが偶然なのであります。
しかしサイコロの面は六つになっていますから、三が出るのは六分の一の確かさがあるわけであります。
そういうと何か偶然さが減じたような感じがしますが別に減じてはいないのであります。
六分の一の確かさがあるということは六回サイコロを振れば一回は三が出てもいいはずだというだけのことです。
それは何百回、何千回と非常に多く振ってみた場合に全体の六分の一の割合で三が出るというだけのことであって、振る回数が少なければ必ずしもその割合にはならない。
六回振ってさんが一度も出ないこともあるし、六回のうち三度くらいは同じ三が出ることもあるのは皆さんもよくご承知のことと思います。
確かさ、すなわち確率という理論上の数量関係は実際には非常に多くの場合の総和に関して妥当するのであって、各々の場合にどの目が出るかということは全く偶然であります。
もっともそれはある意味では偶然でないといえるでありましょう。
サイコロを振ったその場合場合にサイコロの現す面は、サイコロそのものだの、それを受ける平面だの、投げ方だの、空気の抵抗だのの物理的性質によって必然的に決定されたと考えなければならないのでありましょう。
三なら三が出たとすればそれには三の面が出る原因が物理的に必ずなければならないのであります。
従ってそれは偶然ではないと考えられる。
しかしそれでもなおもう一段高い立場に立って考えてみれば、そこにはやはり依然として偶然があるのであります。
いま現に一定の因果系列に支配されて必然的に三の面が出たとしても、その因果系列が必ず存在しなければならないという理由はどこにもないのであります。
他の因果系列に支配されて五なら五の面が出ることもあり得たのであります。
六つの各々違った因果系列が論理的に同等の価値をもって考えられるうちである一つの因果系列が現実として実現されたという点に依然として偶然があるのであります。
物理的必然の裏になお論理的または形而上的偶然が潜んでいるのであります。
このことをはっきり認識することがかんじんであります。
サイコロを振った場合に出る面が一でも二でも三でも四でも五でも六でもあり得るという可能性が論理的または形而上的偶然性を根拠づけるのであります。
要するに何かあることもないこともできるようなものが偶然であります。
「もののはずみ」ということをいいますが、あの「はずみ」というのはものがはずんだ拍子にこっちへ飛ぶかあっちへ飛ぶかわからない、この面が出るかあの面が出るかわからないという意味で偶然を表している言葉であります。
また、あることもないこともできるというのは、必ずなければならないという絶対的理由の欠けていることでありますから、従って偶然とは理由がなくて生じたもの、原因がなくて生じたものというように考えられる場合もあるのであります。
「ゆくりなく」とか「端なくも」とかいうような言葉は「なく」という打ち消しによって理由や原因のないことが言い表されているのであります。
今まで述べましたところではまだ少し曖昧なところがあったのであります。
あることもないこともできるというだけではまだ単に可能という性質でありまして、偶然ということの成立に必要なものではありますが、それだけではまだ足りないのであります。
偶然が成立するためには可能が可能のままで実現される、必然に移らないで可能のままで実現される、といった風のことがなくてはならないのであります。
偶然の第二の性質として挙げておいた何かと何かとが遇う、というのがそこで意味をもってくるのであります。
出逢ったというその瞬間に可能が実現されて偶然となるのであります。
ただしその遇い方がかんじんです。
遇い方を規定しているのがちょうど第一の性質であって、遇うことも遇わないこともあり得るような遇い方でなくてはならないのであります。
必ず遇うにきまっているような遇い方では偶然ではないのです。
例えば病人の見舞に行くとしまして、その病人に遇うことは偶然ではない。
わざわざ遇いに行ったのですから偶然ではない。
しかしそこへ見舞に来合わせた誰それに、思いがけず、遇うことは偶然であります。
その人に遇うということにはなんらの必然性がないのであります。
なるほど、そこへ行けばその人に遇うことも可能であったには違いありませんが、遇わないことも可能であったのです。
遇ったとすればそれは偶然です。
すなわち必ず遇うにきまっていない、遇うことも遇わないこともできるような遇い方をするのが偶然であります。
空を飛んでいる隕石が白熱の状態で地球へ落ちてきて、石油の発源地に火を起こしたとすればその隕石と石油との遇い方は偶然であります。
『朝顔日記』[馬田柳浪作の読本。浄瑠璃、歌舞伎に脚色され、たびたび上演される。文化八年刊]に出てくる島田の宿で盲目の深雪が旅人の駒沢にめぐり合ったという遇い方も偶然であります。
私がサイコロを振って三が出たとすればその三の印と私の眼との出逢い方も偶然であります。
遇わなければならないという必然性が間へ入らないで可能が可能のままで出逢うのが偶然であります。
偶然の「偶」の字は人偏でありますが、之繞[しんにゅう]に書いた遇うという字と同じ意味でありまして、二つのものが遇うことを意味しているのであります。
配偶の偶であります。
我と汝とが出逢うということが偶然の根本的な意味であります。
偶然に関係している言葉で「行き当たりばったり」とか「めぐり合わせ」とか「仕合わせ」とか「まぐれ当たり」とかいうのはみんななんらか二つのものが合って一つになるということを表しているのであります。
これで偶然の第一と第二の性質のことを考えてみたのですが、もう一つ第三の性質として何か稀にしかないことというのが残っております。
この性質は第一の性質を更に限定しているので、偶然の偶然さを尖らかしているとでもいいましょうか、偶然の方向を示しているとでもいいましょうか、これによって偶然が特に目立ってくるのであって、偶然を認識する場合に重要な意味をもってくる性質であります。
例えば同じ工場につとめている者がその工場の建物のなかで、別段、遇うつもりもなく遇ったとすれば、それは偶然であります。
しかしそれはチョイチョイ起こりがちなことであって偶然にはちがいありませんが、いわば必然の方向を向いた偶然、従ってあまり目立たない偶然であります。
それに反して二人が工場の所在地からずっと離れたどこかの町で思いがけずピッタリ遇ったとすれば、その場合には偶然ということが特に鋭く目立ってくるのであります。
稀にしか起こり得ないことだからであります。
稀にしか起こらないこと、というのは遇いにくいこと、という意味であります。
サイコロを振って三なら三が出るのもそれは偶然でありましたが、六回振って六回とも三が出たとすれば、それはきわめて稀にしか起こらないことでありますから大きな偶然と考えられるのであります。
三が六回も続けて互いに顔を合わせるということはめったにない偶然であります。
偶然ということを表すのに「わくらばに」という万葉あたりの古い言葉がありますが、わくら葉というのは夏のうちに既に赤や黄色に色づいてうら枯れた木の葉のことであって、そういうわくら葉はもちろん稀にしかないものでありますから、偶然を表すようになったのであります。
そのほか「たまたま」という言葉も偶然を意味していますが、これもやはり「稀」という意味をもっているのであります。
「たまたま」というのは「たま」というのを二度繰り返していますが「たま」とは何のことかというのに「手の間」と書いて「たま」と読むのであって、「ま」というのが意味の中心をなしているのであります。
「ま」とは「間」であって空間的な隔たりまたは時間的な隔たりを指しているのであります。
従って「まれ」なものが理解されているのであります。
「まれ」というのも「間有れ」がつまったのであります。
ともかくも「ま」というものは始終はない。
稀なものであるから「ま」が偶然ということを意味するようになったのであります。
「まがわるい」というのは現れた偶然の事態が自分にとって適合性を欠いていることであります。
「こんなまになった」というのはこういう偶然の事態に成り行ったことを意味しています。
「ま」の音便で「ん」をつけて「まん」という場合がありますが、「まん」というのは偶然を表している著しい言葉であります。
陶器を焼く人が、何か特別に面白い色合などが出るのは窯の「まん」だなどということを言いますが、あの「まん」というのは、知らないうちに偶然に出来たものをいっているのであります。
それで、いま挙げました幾つかの言葉が偶然ということを表していながら、「稀にしかない」ということからきているのでもわかるように、偶然ということは稀な場合に特に浮き出てきて目にとまるのであります。
稀な場合というのは可能性の少ない場合であります。
可能的ではあるけれども不可能に近いようなことが、どうかしたはずみで実現された場合に偶然が特に鋭く目立ってきて認識されやすいのであります。
偶然は必然の方へは背中を向け、不可能の方へ顔を向けているといってもいいのであります。
これで偶然の三つの性質を考えてみたのであります。
一つにまとめて言いますならば、あることもないこともできるようなもの、それがめったにないものならばなお目立ってくるわけでありますが、そういうものがヒョッコリ現実面へめぐり合わせると、それが偶然なのであります。
次に運命が何であるかということをお話いたします。
運命ということは偶然ということさえわかっていればすぐにわかることなのであります。
偶然な事柄であってそれが人間の生存にとって非常に大きい意味をもっている場合に運命というのであります。
そうして大きい意味というのは外面的なことにも内面的なことにもどちらでも考えられるのでありますが、人間にあって生存全体を揺り動かすような力強いことは主として内面的なことでありますから、運命とは偶然の内面化されたものである、というようにも解釈されるのであります。
運命といえば例えば崖下の道を歩いている時に崖が崩れてきて土に埋まって死んだとすれば、それがその人の運命だったのであります。
ただしこれはむしろ外面的な場合であります。
また宇治の蛍狩で駒沢次郎左衛門に遇ったということは深雪にとっては運命だったのであります。
その一つの出来事が深雪の一生を完全に支配してしまう力をもっていたのであります。
ここでは運命の内面的な色合いが濃く出てきています。
その他、西郷隆盛という一人の人間は江戸で生まれることも京都で生まれることも伊勢で生まれることも土佐で生まれることもできたはずでありますが、薩摩で生まれたということは西郷隆盛の運命だったのであります。
私どもはアメリカ人でもフランス人でもエチオピア人でもインド人でも中国人でもその他のどこの国の者でもあり得たと考えられるのであります。
我々が日本人であるということは我々の運命であります。
虫にも生まれず鳥にも生まれず獣にも生まれずに人間に生まれたということも我々の運命であります。
人間に生まれるというサイコロの目がヒョッコリ出たのであります。
日本人に生まれるというサイコロの目がヒョッコリ出たのであります。
三つ口に生まれついた者、せむしに生まれついた者にとってはそういうサイの目が出たのであります。
ニーチェの『ツァラトゥストラ』の中にこういう話があります。
ツァラトゥストラがある日、大きい橋を渡っていたところが、片輪だの乞食だのがとりまいてきた。
その中にひとりせむしがいてツァラトゥストラに向かって、「だいぶ大勢の人があなたの教えを信じるようになってはきたが、まだ皆とはいかない。
それには一つ大切なことがある。
それはまず私どものような片輪までも説きふせなくてはだめだ」といったのであります。
それに対してツァラトゥストラは「意志が救いをもたらす」ということを教えたのであります。
せむしに生まれついたのは運命であるが意志がその運命から救い出すのであります。
「せむしに生まれることを自分は欲する」という形で「意志が引き返して意志する」ということが自らを救う道であることを教えたのであります。
このツァラトゥストラの教えは偶然なり運命なりにいわば活を入れる秘訣であります。
人間は自己の運命を愛して運命と一体にならなければいけない。
それが人生の第一歩でなければならないと私は考えるのであります。
皆さんは今ラジオを聞いておいでになる。
放送局はいくつありますか、いくつかの放送局があって、それぞれ違った波長の電波を送っているのであります。
皆さんは受信機のダイアルを勝手にお廻しになってそれらの色々と違った波長のうちでどの波長でもお選びになることができたのであります。
そうして自由に選択して一定の放送を聞いておいでになるのであります。
運命というものは我々の側にそういう選択の自由がなくていやでも応でも無理に聞かされている放送のようなものであります。
ほかに違った放送が同じ時間に沢山あるのであるけれども、何故かこの放送を無理に聞かされているというわけであります。
他のことでもあり得たと考えられるのに、このことがちょうど自分の運命になっているのであります。
人間としてその時になし得ることは、意志が引き返してそれを意志して、自分がそれを自由に選んだのと同じわけ合いにすることであります。
山鹿素行も武士は命に安んずべきこと、すなわち運命に安んずべきことを教えているのでありますが、安んずるというばかりでなく更に運命と一体になって運命を深く愛することを学ぶべきであると思うのであります。
自分の運命を心から愛することによって、溌剌たる運命を自分のものとして新たに造り出していくことさえもできるということを申して私の講演を終わります。
私的小論
始めに云っておきますが、私は『偶然性の問題』を読んでいません、あくまで「偶然と運命」という短篇だけに対するものです、まぁ断るまでもないですか。
三種類の偶然があると云い、それを説明した後に、九鬼独自の運命論を展開。
決定論的な運命論とは大きく違ったものです。
例えば、サイコロを振る時に、「出る目は振る瞬間に全て決まっている」というのが決定論的な運命論なわけです。
対して九鬼の運命論は、「何が出るか分からない、確率は6分の1である」という。
そして、振った後、どんな数字でもいいのですが、1なら1が出たときになって初めて、「1が出ることが運命だったのだ」と後付けする。
それらしく名づけるのなら、“後付の運命論”とでも云ってよいものでしょう。
これによれば、起こったことは全て運命となります。
「そのことで何か意味があるのか?」
そう思われるかもしれません、そんな後付で運命というだけならわざわざそう定義づける必要は無いのでは、と。
しかしここに一つの意味が生じるのです。
起こったことは全て運命であると、九鬼は云う。
変えようがないものなのだ、と。
そしてニーチェの『ツァラトゥストラ』を引っ張り、“意志”次第で運命は変わる、と言い出す。
変わらないのに、変わる?
どういうことか。
変わらないものは事象、変わるものは事象に対する心象、ということです。
つまり、起こってしまったことはもう変えようがないのだから、嫌なことだったとしても、それを受け容れろ、いや、受け容れるだけではまだまだ足りない、嫌なことでも抱きかかえろ、すべてを愛せ……、そう云います。
「安んずるというばかりでなく更に運命と一体になって運命を深く愛することを学ぶべきであると思うのであります。
自分の運命を心から愛することによって、溌剌たる運命を自分のものとして新たに造り出していくことさえもできる…」
非常に力強い思想ですね。