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西田幾多郎
「認識者としてのアンリ・ポアンカレ」(『芸文』第三年第十号、大正元年十月)
底本:『思索と体験』岩波文庫、1980
入力校訂:ピュシス
アンリ・ポアンカレがにわかに逝かれたそうである。
氏はいうまでもなく、数学、物理学の大家として、古来の偉人の列に入るべき人であって、その認識論に関する著述の如きは氏の余業に過ぎない。
氏について何かをいわんとするならば、その専門における偉大な事業についていうのが至当であろう。
しかし単に氏の余業にすぎなかった科学の認識論という方面から見ても、氏の著述は優に認識論の専門家をして傾聴せしむるに足ものがあると思う。
由来、専門家といわれる人には、自分の専門の学問、技芸の外に立って、深くこれを反省して見る人は少ない。
中には自分の知識を唯一の真理であるかのように考え、これを以てすべてを解釈しようとするような人すらもあるのである。
勿論、近来は外界からの影響もあるであろうが、むしろ科学そのものの内面的発展から、科学者の間に批評的精神が盛んとなり、科学者自身が自分の専門の知識について批評的に論ずる人もないではないが、なかんずく、ポアンカレは数学、物理学の各部にわたって深き専門的知識を有しながら、これらの知識に拘束せられることなく、よくその真髄を咀嚼し把握し、これらの知識について極めて批評的に分析し区別し、それぞれの根拠と価値とを明らかにするところ、識見の透徹せる、議論の明快なる他にその匹儔[(ひっちゅう)=匹敵]を見ずといってよかろう。
とにかく当今の大家といっても、氏のように学問が深くて、広くて、思想がよくまとまって、公平で、明晰で、徹底した人は見当たらない。
ポアンカレの認識論の立場についていえば、氏はこの頃の多くの学者のように、科学的知識というのは実在の真相そのままを写したものではなく、ある程度までは人為的であると考える人である。
しかし氏は決して単純なプラグマティストではない。
氏の考えでは、いわゆる科学的知識というのは、その幾分かは学者の作為したるものには相違ない、しかし全然学者が勝手に作為したものということはできぬ。
科学の法則というのは経験的事実間の関係を言い表したもので、すなわち純粋なる経験の事実に基づいたものである、この故に科学の法則は事実を予言することができるのである。
例えば、燐は44度の熱で溶解するということは、一見、法則のように見えても、その実、単に燐の定義であって、44度で溶解せぬものがあれば燐と名付けぬまでのことである。
しかしこれが斯く斯くの性質を有ったものは44度で溶解するということを意味するとすれば、これは経験に基づいた一つの法則であって、これによって事実を予言することができる、その代わり学者の勝手に作為したものとはいえない。
ただ、これらの法則を簡易ならしめるため、学者が仲介的第三者すなわちいわゆる原則なるものを作ってこれを統一しようとする。
この原則というのは人為的のものであって便利なものが真理といい得るでもあろう。
しかし経験に基づける法則に到っては斯くということはできぬ。
物理学の学説が動きやすいというのはこの原則のことであって、法則そのもののことではない。
例えば、物理学の学説において、一時、光をエーテルの運動に帰したフレネルの説ほど、確実のものはないと考えられた。
しかし今日は氏の説よりもマクスウェルの説が一層採用せられるのである。
さればとて、これが為に、フレネルの仕事が無益になったのではない。
氏が光学的現象の関係を言いあらわした微分方程式はマクスウェルの説の出なかった以前のように今日もなお真理である。
ポアンカレは斯く一方において経験に基づける客観的真理を認めると共に、一方において我々の精神の想像力に基づく先験的真理を認めているのである、数学の知識がすなわちそれである。
氏は論理より数理を導き出そうとする論理的数学論に反対したが、数学の基礎を一度可能なることは無限に繰り返し得るという精神の直覚に帰し、ここにその必然性を求めた。
この点において氏の考えはカントに似ているといわねばならぬ。
それで氏は右二種の知識だけが我々の勝手に動かすことのできない真理であって、他は幾何学であっても、物理学の原則であってもコンヴェンショナルであると考えた。
面して種々の数学、物理学の知識について、そのコンヴェンショナルの部分と然らざる部分とを極めて明晰に分析、区別して論じている。
ポアンカレは単に有用な」ものは真理であるとか、思惟の経済というようなことで満足し得るにはあまり鋭き頭をもっておった。
氏は毫も自己の主観的独断を加えない、種々の科学的知識を解剖台上に持ち来たって、明らかに物そのものを解剖してみせるのである、ここに氏の特色があると思う。
ポアンカレの認識論に関する著述でまとまった書物となっているのは、いうまでもなくLa Science et l'Hypothése[科学と仮説]、La Valeur de la Science[科学の価値]、Science et Méthode[科学と方法]の三書である、その中第一が最も重要のものであろう。
氏の論文はショーペンハウエルのいわゆるシュヴァイツの湖水のように明晰透徹で、深き真理を直覚的に生き生きした形に言い表すところ、フランス哲学者の特色とはいえ、いかにもその理解力の非凡なることを思わしめると共に、氏は一方において想像に秀で、文藻に富んだ人であったと考えねばならぬ。
氏は「数学における直覚と論理」と題する論文において数学者に論理的の人と直覚的の人と二種あることを論じ、自分が教わったことがあるのであろう、エルミットとベルトランとの二人の講義振りなど比較して面白く論じているが、氏自身は多分ヴェーベルのいったように、この両面を兼備した人であろう。
氏は「数学的発明」と題する論文の中に、氏が初めて有名なフックス函数を発見した時、色々苦心して何らの結果に達しなかったが、一夜コーヒーを飲んで眠られなかった中に突然思想が湧出したとか、またこの考えが非ユークリッド幾何学の考えと同一であることを発見したのは、旅行中で毫も数学のことなど考えていなかったが、クータンスで馬車に乗った時、突然この思想が浮かんだとか、自分の数学的発見が多く不意に、突然に成ったことを書いている。
すべて発見というものは此の如きものであろうが、また氏が直覚的傾向の天才であったことを証すると思う。
ポアンカレは右にいったように多方面に秀でた学者であったと共に、真理の研究に全身を同化した真摯な学者であったと思う。
勿論、ポアンカレのような立派な学者にあっては、さもあるべきことではあろうが、氏の『科学の価値』の序文や、Savants et Écrivains[科学者と詩人]の序文などを読めば、この精神がよく分かると思う。
前者においては真理の研究ということが我々の最も尊き目的であることを述べ、自分のいうのは科学的真理のことであるが、道徳的真理すなわち正義を求めるものもこれと同一の精神である、真理という同一語にて統合すべきであるといっている。
後者においては学者というものは、謙虚なもので、心の若々しいもので、名利に無頓着なものであるなど述べ来たって、学者がある発見をなし、真理に面と相向かった時、その喜悦は自己の名誉の満足などとは比べものにならないといっている。
(大正元年八月)
私的まとめ
ポアンカレ絶賛な追悼文。
西田の文章にしては読みやすく分かり易いものと思います。
敢えて補足するようなところも無いですね。
中でも長文は読みにくいものもあるかと思いますので、その場合は、短文を拾い読みしていけば概要は掴めるものかと思います。