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西田幾多郎
「ベルグソンの純粋持続」(『教育学術会』臨時増刊「最近学芸大観」同文館発行、明治四十四年十一月)
底本:『思索と体験』岩波文庫、1980
入力校訂:ピュシス
余はベルグソンの哲学には多大の興味をもっている者である。
しかし余は未だ氏の著書を精読したわけでもなく、かつ氏の哲学の如き深くして独創的なる思想は余の誤解しおるところも多かろうと思う。
此処にはただ余が理解し得た二、三の要点を記するまでである。
氏の哲学の如きは自らその書を読まなければ真の味が分からぬものであると思う。
ベルグソンの思想において最も特色あるもので、かねて氏の哲学の根底となっているものは純粋持続durée pureの考であると思う。
由来、哲学は理性より出立するものと経験より出立するものとあって、ベルグソンは後者の方に属するのであるが、かえって思惟に因って作為せられたものである。
ベルグソンは一切の独断を除き尽くして深く経験そのものの真相に到達せんとした、かくして捕捉しきったものが純粋持続の考である。
氏に従えば我々の直接経験の事実すなわちいわゆる意識現象は本来種別的qualitativeのものであって、量別的quantitativeのものではない。
これに対する量別的区別は物体界との対比から第二次的に起こってくるのである、例えば感覚の強弱、感情の深浅みな種別的であって量別的ではないというのである。
かく意識が種別的であるということは同時に意識はいつでも一つの状態である、独立せる二個の意識の同時存在を許さぬということになる。
意識には決して並置juxtapositionということはない、すなわち空間的関係を当て嵌めることはできぬ。
氏は次の如きことをいっている、自分が薔薇の香を嗅いで幼時の追懐に耽る時、自分は薔薇の香に因って幼時の記憶を想起したのではない、香の中に幼時の記憶を嗅いだのであると。
さて斯く種別的であっていつでも一つである意識の変化は不断連続でなければならぬ、換言すれば連続的進行でなければならぬ。
この言語思慮を絶し、禅家のいわゆる「心随ニ万境一転、転処実能幽」[心は万境にしたがって転ず、転処実によく幽なり]といったようなところが赤裸々たる経験の真相である、自己の本体である、ベルグソンはこれを純粋持続または内面的持続と名づけるのである。
それではこの持続とは如何なる性質のものであるか。
持続といえばただちに時間ということを想起するのであるが、氏の持続とは普通の意味における時間上の持続と同一視することはできぬ。
氏がEssaiの中に詳論するところに従えば、普通のいわゆる時間とは、連続的進行を反省してこれを同時存在の横断面の上に持ちこした場合の並置的関係にすぎぬ。
例えば時計にて時間を計るというのは針の進行を指針面上の空間的関係に移してこれを知るのである。
時はかえすことができぬというが、いわゆる時間の根底には空間がある、空間的関係なくしていわゆる時間的関係を考えることはできないのである。
然るに氏のいわゆる純粋持続は縦線的不断進行である、一瞬前の過去にも還ることができない。
我々が一瞬前の過去を想起した時、その意識はすでに一瞬前の過去ではない、我々は到底同一の経験を再び繰り返すことはできぬ。
ヘラクレイトスの永久の流れにも比ぶべき純粋持続は、流るる時le temps qui s'écouleであって、流れた時le temps écouléではない。
こういうわけであるから、純粋持続すなわち我々の内面生活は不断なる内面的進歩発展でなければならぬ、すなわち創造的発展evolution créatriceであるのである。
我々の現在は決して過去のない現在ではない、我々の過去が自ら発展して来たった現在である、我々の未来はまたこの現在が自ら発展していく未来である。
我々の背後にはいつでも我々の過去が圧迫して来るのである、我々はいつでも我々の歴史を負うて立っているのである。
我々の独創性は実に此処にあるのである。
記憶という如き力があって過去を分類し記載し置くのではない、過去は自動的に己を保存し、影の如く我々の踵に随うのである。
さてまた此の如く考えれば、純粋持続は始めから定まった目的を以て進むもので、その意匠的説明ができるもののように思われるかも知らぬが、ベルグソンはこの直接の経験である純粋持続に対しては、ただに機械的説明を拒むのみならず、その意匠的説明をも否定するのである。
純粋持続は前にもいったように連続的創造である、同一の場合を再び繰り返すことはできない。
大体において類似せる場合に大体の方向を予想することはできるかも知らぬが、真に如何に発展するかは自身この流れに入って実地に臨んでみなくては分からぬ。
此処には思慮分別の概念的知識を容れるべき余地がない、実に古歌の「ゆらのとを わたる舟人 かぢをたえ 行へも知らぬ 恋のみちかな」という趣がある。
ベルグソンが自由意志というのはこの境涯を指すのである。
氏が好んで用いる比喩を以ていえば、画家がモデルを前にして、肖像を描かんとする場合に、如何なる肖像画ができるかはそのモデルの容貌と画家の性質と、パレットの上にのべられたる顔料とによって大体を予想することができるかも知らぬが、真に如何なる画ができるかは画家自身にも知ることができぬ。
我々は生活の瞬間、瞬間において画家である、一瞬一瞬が創造的である。
かかることをいえば、それは我々の知識が不完全なる故であるというかも知らぬが、どこまでも過去の経験を基として抽象し得た概念的知識にかかる説明をなす力のないことはポアンカレを始め多くの数物の大家も認めていることであろうと思う。
以上述べたところに因って、ベルグソンの純粋持続の如何なるものであるかを、ほぼ説明したつもりであるが、氏に従えば、これが直接なる具体的経験の真相であって、すなわち実在の真面目[しんめんもく]である。
物理学者のいわゆる物体界の如き、合理論者のいうところの不変なる実在界という如きものは、我々の知識によって作為したもので実在の真相を伝うるものではない。
我々の知識は行動の手段となるものであって、外界の成功を目的としたものである。
いわゆる知識はすべて実用的意味をもったものである、物を手段として外から見たものにすぎぬ。
物そのものを知るにはそのものとなって内からこれを知らねばならぬ、これがすなわちベルグソンの直観である。
直観と概念的知識の比較については氏の『哲学入門』という小冊子に詳論してあるが、余は既に哲学的方法論において述べたからここにはこれを略することとする。
それでは右に述べたような純粋持続から如何にして知識や物質が出て来るか、この両者は如何なる意味をもったものであるか。
純粋持続は前にいったように連続的創造である。
すべての過去を縦線的に背後に列して現在という一点に集中するところに創造があるのである、平易にいえば精神の非常に集中したところに創造があるのである、すなわち純粋持続は緊張étendreであるということができる。
既にこれを緊張であるとすれば、緊張には程度の差があるわけである、緊張の他面には弛緩détendreがなければならぬ、すなわち純粋持続には緊張と弛緩との両方向がなければならぬ。
さてこういう両方向があるとして、この純粋持続を縦線的に緊張しきったるところが我々の生命であり、自由行為であり、かねて実在の真面目である。
然るに一度この緊張を弛めんか、我々は活溌溌地[かっぱつぱっち]なる真剣の世界から一転して夢の世界に入る、ここにおいて我々の自己はたちまち拡散し、過去の歴史は個々独立せる無数の記憶の並列的関係に配置せられ、我々のパーソナリティは空間的関係の中に陥ってしまう。
こういう風に相連続せる縦線的経験を個々独立せる横線的すなわち空間的関係と並列し、外より相互の関係を見たるものが知識であって、かくして成立したものがすなわち物質界である、この両者は同一の根源をもったものであるという。
いわゆる物質界とはつまり純粋持続の緊張を極度まで弛めたものにすぎぬ。
もちろん絶対的緊張とか絶対的弛緩とかいうようのものは実際に無いかも知らぬが、とにかく物質とは精神を逆にしたものである。
然るに我々の精神すなわち純粋持続は己を緊張してこの並置的横断面を突破して進もうとする、ここにおいてこの外界に打ち勝つため並置的関係の知識を要するようになり、いわゆる外界知識とは純粋持続の尖端がこの横断面に撞着するところに生ずるのである。
ベルグソンに従えば我々の身体は単に行動の器具であって、精神と平行する独立の存在ではない、ただの接触面を示すこととなるのである。
それではベルグソンの宇宙観というものは畢竟如何なるものとなるのであろうか。
右にいったように純粋持続には緊張と弛緩との両方向があってこの持続が己を緊張して突進するところに我々の生命がある、これがすなわち宇宙発展の形式となるのである。
弛緩の極度に達し、ほとんど活力なきものがいわゆる無機物である。
生物とは持続が既にこの弛緩の平面を破って己を発展したものである。
すなわち生命の原始的衝動l'élan vitalが一様的なる物質を破って個性を樹立したものである。
しかし生物というも未だ全然物質の束縛を脱し得たものではない。
氏に従えば生命vieはあたかも一つの中心から四方に氾濫する大波の如きものである。
或る者は少しの障碍に遇うて止まり、或る者はこれを越えて進むのである。
氏は生命の方向を分かって眠生、本能、知識の三としている、第一は植物の生活、第二は動物の生活、第三は人間の生活である。
この三つはもとより一つの生活の分化であるから、相混じてはいるが、大体において全然異なった方向を取ったものである。
独り人間において純粋持続は全然物質に打ち勝って自由の域に入ることができたのである。
しかし人間でもすぐこの純粋持続の流れの上に固定せる独断や因襲の皮ができる。
この皮が厚くなれば麻痺した植物生活と択ぶところなきものになってしまう。
ただ、創造的天才はこれを破って純粋持続の自由の天地を闊歩するのである。
(明治四十四年年九月)
私的まとめ
西田の小論でも特にすぐれた(と私は思っている)もの。
今読んでも断然通じる、明快な純粋持続論、要点をよく押さえております。
途中に出てくる「心随〜」は法語ですが、書き下し方が違う場合は教えて下さいませ。
また、短歌を持ち出してくるあたりも流石で風流。
こうしてベルグソン哲学を日本思想によりて解するというのが、西田幾多郎の面目躍如たるところでしょう。