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西田幾多郎

「コーヘンの純粋意識」(『芸文』第七年第八号、大正五年八月)

底本:『思索と体験』岩波文庫、1980

入力校訂:ピュシス

 

 

 


 カントはその批評的方法によって、知識の方面において客観的知識の拠って立つところの根拠を明らかにしたとともに、同一の方法を道徳芸術の方面にも及ぼして、これらの方面においても、客観的判断の拠って立つところの根拠を明らかにした。

 批評哲学の目的は心理主義に反して事実の問題と勝ちの問題とを峻別し、真、善、美の三方面において一般妥当的判断の根拠となる純粋のアプリオリを明らかにすることであった。

 カントの徒を以て任ずるコーヘンの哲学の目的ももとより大体において右の外に出ない。

 しかしカントにおいては純粋なるアプリオリとは知識、道徳、芸術のいずれの方面においても客観的判断の成立に欠くべからざる形式であった、然るにコーヘンにおいては純粋なものdas Reineとは、それ自身にて発展するものである、己自身から内容を作り出すものである。

 氏の純粋という語は、昔ピタゴラス学徒によって用いられ、プラトンがこれを取って自己の哲学の重要なる述語とした純粋の意義であった。

 純粋ということは無内容ということでない、不純粋な内容というものは純粋なものに反するのではない、ただ純化せらるべきものというに過ぎない。

 斯くの如き考からコーヘンは思惟に対して与えられるものは思惟によって要求せられたものとしてすべての科学的知識を純粋思惟の内面的発展と考えた。

 コーヘンの考では、思惟はそれ自身において生産的erzeugendである、すなわち動的である、生産それ自身が所産である、Die Erzeugung selbst ist das Erzeugungというのがその特徴である。

 一般妥当的として客観性を要求し得る科学的知識Wissenschaftは、此の如き純粋思惟によって基礎付けbegruendenられたものでなければならぬ。

 思惟に対して与えられたものは外から与えられるのではなく、内から要求せられるのである。

 すなわち問題として与えられるのである、das Gegebeneはdas Aufgegebeneである。

 いわゆる知識の内容として思惟の外に考えられる感覚のごときも、外から与えられたものでない、思惟によって要求せられたものである。

 感覚は未だ実在の知識ではない、単に実在の知識の指標Indexである、思惟を離れて実在はない、Denken=Seinである。

 コーヘンの哲学において主観的と客観的との区別は、意識内容が思惟によって統一せられる程度の相違と考えることができる。

 未だ思惟の光によって照らされざる意識内容、すなわち単に問題として与えられた状態が主観的であって、その統一せられるに従って客観的となる。

 コーヘンは前者をBewusstheitとしてBewusstseinと区別している、Bewusstheit ist Mythos, Bewusstsein ist Wissenschaftというのはこれによるのである。

 時間空間によって限定せられた心理学者の考える如きpsychophysisches Subjektというものは、かえって客観界の一現象と見るべきであろう。

 

 コーヘンは右に述べた如き純粋意識の純粋の意義にならって純粋意志と純粋感情というものを考え、これによって意志と感情との方面において客観的意識を明らかにした、すなわち善と美との意義を明らかにした。

 コーヘンに従えば我々の意識は元来動的なものである、意識の本性は運動Bewegungである。

 さきに思惟が生産的であり動的であるといったのも、思惟は意識の一種eine Bewusstseinsartなるが故である。

 もとよりこの運動という語は物質界における運動の意義ではない。

 しかく解するならばそれは大なる誤である。

 物質界における運動はかえって思惟の運動によって基礎付けられたものである。

 純粋思惟は生産自身が所産であるというように、それ自身によって内容を作り、それ自身によって発展するという意味において動的なのである。

 右の如くその根本において動的なる意識は、単なる思惟ではなくして、意志でありまた感情である、思惟は意識の一方面に過ぎない。

 意志とか感情とかいうものが意識の一種であるから、純粋知識においての純粋と同一の意義において純粋意志とか純粋感情とかいうものを論ずることができるのである。

 

 それではコーヘンの純粋意志とは如何なるものであるか。

 純粋意志は連続原理によって己自身から発展し純粋知識を構成するものであるとするならば、純粋意志は同じく己自身の中から発展し、己自身に内容を作りゆく行為でなければならぬ。

 思惟に対して与えられるものは思惟によって要求せられたものである、外から与えられると考えられる感覚の如きも内包量の原理によって内から要求せられたものであり、感覚は実在の知識の指標である、思惟を離れて知識はない。

 これと同じく意志を動かすものは意志自身でなければならぬ、意志が外から動かされた時、それは意志でない、我が外界から動かされる時、そは自然であって、我ではない。

 感覚はただちに知識でないように欲望Begehrungはただちに意志ではない、感覚が内包量の原理に当て嵌まって知識の体系の中にその権利を要求し得る如くに、欲望が我々の意志となるのは傾向Tendenzのアプリオリによるのである。

 コーヘンはDie Tendenz ist das Reine des Affektsといっている。

 この傾向は他から出るのではない、意志自身より出るのである、すなわち努力Strebenのために努力するのである。

 その対象は当為Sollenの世界である、当為がその内容となるのである。

 此の如き純粋意志は自然的原因より根本的なるは言うまでもなく、自然を構成する純粋思惟の根底においてすでに働いているのである。

 

 次にコーヘンは右と同一の考え方によって純粋感情を論じている。

 感情も思惟や意志と同じくそれ自身に対象を有し内容を想像する特殊の意識でなければならぬ。

 美的判断の客観性は斯くして立せられるのである。

 美醜の判断と快、不快とは同一ではない。

 快、不快とは主観的な意識状態を言い表したもので、未だ何らのそれ自身に独立な客観的意識内容を与えることはできぬ、従って美的判断として一般妥当性を要求することはできぬ。

 それでは感情は、思惟や意志と対立して、如何なる意味において意識の特殊なる一種と考えることができるか。

 意識の根本生は前もいった如く運動であり、動的である、しかして此の如き意識の根本形式Urformが感情である。

 意識は普通に考えられるように感覚を以て始まるものではない、感情を以て始まるものである。

 感情はかつてヨハネス・ミュルレルが、感覚に対して用いた素質Dispositionの意味において意識そのものに対する素質である。

 感情と運動と別物ではない、感情は運動のAnnexである。

 意識は運動であるというが、その運動は単に無限なる直線的運動ではない、いわゆる連続原理によってその元に還って進み行く円環的運動である、その始まるところにまた終がある。

 感情は斯くの如き意識発展の一段階を表す意識統一の意識である。

 要するに感情は意識が意識自身に対する態度であるというべきである。

 コーヘンは三つの純粋意識の方向を論じて次の如くいっている。

 知識においては客観的対象の創造が主眼であって、主観は注意せられない。

 意志においてはこれに反し意識の根本的動作たる運動そのものが意識せられる、すなわち意志においては意識の中心たる自己が意識せられるのである。

 しかし純粋意志においては自己はその始でもなければ終でもない(Von ihm geht die Ausstrahlung nicht aus und auf ihn geht keine Reflexion zurueck.)。

 純粋意志においては自己の焦点は無限の距離にある、すなわち個人は無限の問題においてその焦点を有するのである、純粋感情すなわち美的意識はこれに反し自己そのものを目的とするのである、自己の問題を目的とするのではなく自己すなわち個人そのものを目的とするのである。

 すべての芸術的創作は此の如き個人の根本的感情に還り、感情の純粋内容から作られたものである、それで芸術は天才の仕事である。

 

 コーヘンの純粋意識が以上述べた如きものであるとするならば、我々の意識は元来動的であって、das ReineはそのPriusと考えることができるであろう。

 我々が連続原理によって元に還り行くのは、その動的な根本的全体に近づくのであると考えることもできる。

 しかして純粋感情が根本的意識であって、我々は芸術において意識の中心に接触するともいい得るであろう。

 余はここにおいてコーヘンの考とシェリングやベルグソンの考との間に一種の接触点のあることを感ぜざるを得ない。

 もちろんどこまでもカント学徒たるコーヘンの論ずるところは価値的順序であって、シェリングやベルグソンなどの考のように実在的順序と考えることはできぬであろうが、余は価値と実在とはどこかに内面的接触点を見出さねばならぬと思う。

(大正五年八月)


 

 

 

私的考察

最近は全然名前の見られなくなった存在であるコーヘン。

コーヘンに関する文章はまだこの西田のものしか読んだことがなく、少々理解に難いです。

キーセンテンスを幾つか抜き出してみます。

「感覚は未だ実在の知識ではない、単に実在の知識の指標Indexである、思惟を離れて実在はない、Denken=Seinである」

「これと同じく意志を動かすものは意志自身でなければならぬ、意志が外から動かされた時、それは意志でない、我が外界から動かされる時、そは自然であって、我ではない」

「意識は運動であるというが、その運動は単に無限なる直線的運動ではない、いわゆる連続原理によってその元に還って進み行く円環的運動である、その始まるところにまた終がある」

「純粋意志においては自己の焦点は無限の距離にある、すなわち個人は無限の問題においてその焦点を有するのである、純粋感情すなわち美的意識はこれに反し自己そのものを目的とするのである、自己の問題を目的とするのではなく自己すなわち個人そのものを目的とするのである」

ここらが鍵だと思うのですが、どうでしょう。

特に、Denken=Seinというのが興味深いですが……。

そこで注目すべきところは、西田の問題意識。

価値と実在とはどこかに内面的接触点を見出さねばならぬ、と言い切っています。

つまり西田の考えでは、コーヘン哲学では、思惟を離れて実在はない、というのは逆に、実在を離れた思惟はある、ということになるのでしょうか。

というのは、これが縦型の円柱二層構造として、基底となっているのが思惟、上部が実在というように考えられているのか、ということです。

それを、縦型から横型にするというのが、実在を離れた思惟もまたないとするのが、内面的接触点を見出す、ということを等しい?

しかし、Denken=Seinと等号で結んでいるのがまた気になります。

そしてまた、あくまでも思惟≒価値でしかない、という反論もあることでしょう。

よくワカランです。