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西田幾多郎
「第一編 純粋経験 第二章 思惟」
底本:『善の研究 改版』岩波文庫、1979
入力校訂:ピュシス
思惟というのは心理学から見れば、表象間の関係を定めこれを統一する作用である。
その最も単一なる形は判断であって、すなわち二つの表象の関係を定め、これを結合するのである。
しかし我々は判断において二つの独立なる表象を結合するのではなく、かえってある一つの全き表象を分析するのである。
たとえば「馬が走る」という判断は、「走る馬」という一表象を分析して生ずるのである。
それで、判断の背後にはいつでも純粋経験の事実がある。
判断において主客両表象の結合は、実にこれによりてできるのである。
勿論いつでも全き表象がまず現れて、これより分析が始まるというのではない。
まず主語表象があって、これより一定の方向において種々の聯想[連想]を起こし、選択の後その一に決定する場合もある。
しかしこの場合でも、いよいよこれを決定する時には、まず主客両表象を含む全き表象が現れてこなければならぬ。
つまりこの表象がはじめから含蓄的に働いていたのが、現実となるところにおいて判断を得るのである。
かく判断のもとには純粋経験がなければならぬということは、ただに事実に対する判断の場合のみではなく、純理的判断というようなものにおいても同様である。
たとえば幾何学の公理のごときものでも皆一種の直覚に基づいている。
たとい抽象的概念であっても、二つのものを比較し判断するにはそのもとにおいて統一的或者の経験がなければならぬ。
いわゆる思惟の必然性というのはこれより出でくるのである。
故にもし前にいったように近くのごときもののみでなく、関係の意識をも経験と名づくることができるならば、純理的判断のもとにも純粋経験の事実があるということができるのである。
また推論の結果として生ずる判断についてみても、ロックが論証的知識においても一歩一歩に直覚的証明がなければならぬといったように(Locke, An Essay concerning Human Understanding, Bk.IV, Chap.II, 7)連鎖となる判断のもとにはいつも純粋経験の事実がなければならぬ。
種々の方面の判断を綜合して断案を下す場合においても、たとい全体を統一する事実的直覚はないにしても、すべての関係を綜合統一する論理的直覚が働いている(いわゆる思想の三法則のごときも一種の内面的直覚である)。
たとえば種々の観察より推して地球が動いていなければならぬというのも、つまり一種の直覚に基づける論理法によりて判断するのである。
従来伝統的に思惟と純粋経験とは全く類を異にせる精神作用であると考えられている。
しかし今すべての独断を棄てて直接に考えジェームスが「純粋経験の世界」と題せる小論文にいったように、関係の意識をも経験の中に入れて考えてみると、思惟の作用も純粋経験の一種であるということができると思う。
知覚と思惟の要素たる心像とは、外より見れば、一は外物より来たる末端神経の刺戟に基づき、一は脳の皮質の刺戟に基づくというように区別ができ、また内から見ても、我々は通常知覚と心像とを混同することはない。
しかし純心理的に考えて、どこまでも厳密に区別ができるかというに、そはすこぶる困難である、つまり強度の差とかそのほか種々の関係の異なるより来たるので、絶対的区別はないのである(夢、幻覚などにおいて我々はしばしば心像を知覚と混同することがある)。
原始的意識にかかる区別があったのではなく、ただ種々の関係より区別せられるようになったのであろう。
また一見、知覚は単一であって、思惟は複雑なる過程であるように見えるが、知覚といっても必ずしも単一ではない、知覚も構成的作用である。
思惟といってもその統一の方面より見れば一の作用である。
ある統一者の発展と見ることができる。
かく思惟と知覚的経験のごときものとを同一種と考えることについては種々の異論もあるであろうから、余はこれより少しくこれらの点について論じてみようと思う。
普通には知覚的経験のごときは所動的で、その作用がすべて無意識であり、思惟はこれに反し能動的でその作用がすべて意識的であると考えられている。
しかしかように明らかなる区別はどこにあるであろうか。
思惟であっても、そが自由に活動し発展する時にはほとんど無意識的注意の下において行われるのである、意識的となるのはかえってこの進行が妨げられた場合である。
思惟を進行せしむるものは我々の随意作用ではない、思惟は己自身にて発展するのである。
我々が全く自己を棄てて思惟の対象すなわち問題に純一となった時、更に適当にいえば自己をその中に没した時、はじめて思惟の活動を見るのである。
思惟には自ら思惟の法則があって自ら活動するのである。
我々の意志に従うのではない。
対象に純一になること、すなわち注意を向けることを有意的といえばいいうるであろうが、この点においては知覚も同一であろうと思う、我々は見んと欲する物に自由に注意を向けて見ることができる。
もちろん思惟においては知覚の場合よりも統一がゆるやかであり、その推移が意識的であるように思われるので、前にこれを以てその特徴としておいたが、厳密に考えてみるとこの区別も相対的であって、思惟においても一表象より一表象に推移する瞬間においては無意識である、統一作用が現実に働きつつある間は無意識でなければならぬ。
これを対象として意識する時には、すでにその作用は過去に属するのである。
かく思惟の統一作用は全然意志の外にあるのであるが、ただ我々がある問題について考える時、種々の方向があってその取捨が自由であるように思われるのである。
しかしかかる現象は知覚の場合にもないのではない。
少しく複雑なる知覚においてはいかに注意を向けるかは自由である、たとえば一幀[いっとう]の画を見るにしても、形に注意することもできまた色彩に注意することもできる。
そのほか、知覚では我々は外から動かされ、思惟では内より動くなどいうが、内外の区別というも要するに相対的にすぎぬ、ただ思惟の材料たる心像は比較的変動しやすく自由であるからかく見えるのである。
次に普通には知覚は具象的事実の意識であり、思惟は抽象的関係の意識であって、両者全然その類を異にするもののように考えられている。
しかし純粋に抽象的関係というようなものは我々はこれを意識することはできぬ、思惟の運行もある具象的心像を借りて行われるのである、心像なくして思惟は成立しない。
たとえば三角形のすべての角の和は二直角であるということを証明するにも、ある特殊なる三角形の心像によらねばならぬのである、思惟は心像を離れた独立の意識ではない、ある特殊なる三角形の心像によらねばならぬのである、思惟は心像を離れた独立の意識ではない、これに伴う一現象である。
ゴールGoreは、心像とその意味との関係は刺戟とその反応との関係と同一であると説いている(Dewey, Studies in Logical Theory)。
思惟は心像に対する意識の反応であって、しかしてまた心像は思惟の端緒である、思惟と心像とは別ものではない。
いかなる心像であっても決して独立ではない、必ず全意識と何らかの関係において現れる、しかしてこの方面が思惟における関係の意識である、純粋なる思惟と思われるものも、ただこの方面の著しきものにすぎないのである。
さて心像と思惟との関係を右のごとく考えたところで、知覚においてはかくのごとき思惟的方面がないかというに、決してそうではない。
すべての意識現象のように知覚も一の体系的作用である、知覚においてはその反応はかえって顕著であって意志となり動作となって現れるのであるが、心像においては単に思惟として内面的関係に止まるのである。
されば事実上の意識には知覚と心像との区別はあるが、具象と抽象との別はない、思惟は心像間の事実の意識である、しかして知覚と心像との別も前にいったように厳密なる純粋経験の立脚地よりしては、どこまでも区別することはできないのである。
以上は心理学上より見て、思惟も純粋経験の一種であることを論じたのであるが、思惟は単に個人的意識の上の事実ではなくして客観的意味をもっている、思惟の本領とするところは真理を現すにあるのである、自分で自分の意識現象を直覚する純粋経験の場合には真妄ということはないが、思惟には真妄の別があるともいえる。
これらの点を明らかにするにはいわゆる客観、実在、真理などの意義を詳論する必要はあるが、極めて批評的に考えてみると、純粋経験の事実のほかに実在なく、これらの性質も心理的に説明ができると思う。
前にもいったように、意識の意味というのは他との関係より生じてくる、換言すればその意識の入り込む体系によりて定まってくる。
同一の意識であっても、その入り込む体系の異なるによりて種々の意味を生ずるのである。
たとえば意味の意識であるある心像であっても、他に関係なくただそれだけとして見た時には、何らの意味も持たない単に純粋経験の事実である。
これに反し事実の意識なるある知覚も、意識体系の上に他と関係を有する点より見れば意味をもっている、ただ多くの場合にその意味が無意識であるのである。
しからば如何なる思想が真であり如何なる思想が偽であるかというに、我々はいつでも意識体系の中で最も有力なるもの、すなわち最大最深なる体系を客観的実在と信じ、これに合った場面を真理、これと衝突した場合を偽と考えるのである。
この考えより見れば、知覚にも正しいとか誤るとかいうことがある。
すなわちある体系よりして見て、よくその目的に合うた時が正しく、これに反したときが誤ったのである。
もちろんこれらの体系の中には種々の意味があるので、知覚の背後における体系は多く実践的であるが、思惟の体系は純知識的であるというような区別もできるであろう。
しかし余は知覚の究竟[きゅうきょう。究極]的目的は実践的であるように、意志のもとに理性が潜んでいるといえると思う。
このことは後に意志のところに論じようと思うが、かかる体系の区別も絶対的とはいえないのである。
また同じ知識的作用であっても、聯想[連想]とか記憶とかいうのは単に個人的意識内の関係統一であるが、思惟だけは超個人的で一般的であるともいえる。
しかしかかる区別も我々の経験の範囲を強いて個人的と限るより起こるので、純粋経験の前にはかえって個人なるもののないことに考え到らぬのである(意志は意識統一の小なる要求で、理性はその深遠なる要求である)。
これまで思惟と純粋経験とを比較し、普通にはこの二者が全く類を異にすると思うている点も、深く考えてみると一致の点を見出し得ることを述べたのであるが、今少しく思惟の起源および帰趨について論じ、更に右二者の関係を明らかにしようと思う。
我々の意識の原始的状態または発達せる意識でもその直後の状態は、いつでも純粋経験の状態であることは誰しも許すところであろう。
反省的思惟の作用は次位的にこれより生じたものである。
しからば何故にかくのごとき作用が生ずるのであるかというに、前にいったように意識は元来一の体系である、自ら己を発展完成するのがその自然の状態である、しかもその発展の行路において種々なる体系の矛盾衝突が起こってくる、反省的思惟はこの場合に現れるのである。
しかし一面より見てかくのごとく矛盾衝突するものも、他面より見れば直ちに一層大なる体系的発展の端緒である。
換言すれば大なる統一の未完の状態ともいうべきものである。
たとえば行為においてもまた知識においても、我々の経験が複雑となり種々の聯想[連想]が現れ、その自然の行路を妨げた時我々は反省的となる。
この矛盾衝突の裏面には暗に統一の可能を意味しているのであって、決意あるいは解決の時すでに大なる統一の端緒が成立するのである。
しかし我々は決して単に決意または解決というごとき内面的統一の状態にのみ止まるのではない、決意はこれに実行の伴うは言をまたず、思想でも必ず何らかの実践的意味をもっている、思想は必ず実行に現れねばならぬ、すなわち純粋経験の統一に達せねばならぬ。
されば純粋経験の事実は我々の思想のアルファでありまたオメガである。
要するに思惟は大なる意識体系の発展実現する過程にすぎない、もし大なる意識統一に住してこれを見れば、思惟というのも大なる一直覚の上における波瀾にすぎぬのである。
たとえば我々がある目的について苦慮する時、目的なる統一的意識はいつでもその背後に直覚的事実として働いているのである。
それで思惟といっても別に純粋経験とは異なった内容も形式ももっておらぬ、ただその深く大ではあるが未完の状態である。
他面より見れば真の純粋経験とは単に所動的ではなく、かえって構成的で一般的方面をもっている、すなわち思惟を含んでいるといってよい。
純粋経験と思惟とは元来同一事実の見方を異にしたものである。
かつてヘーゲルが力を極めて主張したように、思惟の本質は抽象的なるものにあるのでなく、かえってその具体的なるにあるとすれば、余が上にいった意味の純粋経験とほとんど同一となってくる、純粋経験は直に思惟であるといってもよい。
具体的思惟より見れば、概念の一般性というのは普通にいうように類似の性質を抽象したものではない、具体的事実の統一力である、ヘーゲルも一般とは具体的なるものの魂であるといっている(Hegel, Wissenschaft der Logik, III, S.37)。
しかして我々の純粋経験は体系的発展であるから、その根柢に働きつつある統一力は直に概念の一般性そのものでなければならぬ、経験の発展は直に思惟の進行となる、すなわち純粋経験の事実とはいわゆる一般なるものが己自身を実現するのである。
感覚あるいは聯想[連想]のごときものにおいてすら、その背後に潜在的統一作用が働いている。
これに反し思惟においても統一が働く瞬間には、前にいったようにその統一自身は無意識である。
ただ統一が抽象せられ、対象化せられた時、別の意識となって現れる、しかしこの時はすでに統一の作用を失っているのである。
純粋経験とは単一とか所動的とかいう意味ならば思惟と相反するでもあろうが、経験とはありのままを知るという胃ならば、単一とか所動的とかいうことはかえって純粋経験の状態とはいわれない、真に直接なる状態は構成的で能動的である。
我々は普通に思惟によりて一般的なるものを知り、経験によりて個体的なるものを知ると思うている。
しかし個体を離れて一般的なるものがあるのではない、真に一般的なるものは個体的実現の背後における潜勢力である、個体の中にありてこれを発展せしむる力である、たとえば植物の種子のごときものである。
もし個体より抽象せられた他の特殊と対立するごときものならば、そは真の一般ではなくして、やはり特殊である、かかる場合では一般は特殊の上に位するのではなく、これと同列にあるのである、たとえば、色ある三角形について、三角形より見れば色は特殊であろうが、色より見れば三角は特殊である。
かくのごとき抽象的で無力なる一般ならば推理や綜合のもととなることはできぬ。
それで思惟の活動において統一のもとたる真に一般なるものは、個体的現実とその内容を同じうする潜勢力でなければならぬ、ただその含蓄的なると顕現的なるとによりて異なっているのである。
個体とは一般的なるものの限定せられたのである。
個体と一般との関係をかくのごとく考えると、論理的にも思惟と経験との差別がなくなってくる。
我々が現在の個体的経験といっているものも、その実は発展の途中にあるものと見ることができる、すなわちなお精細に限定せられるべき潜勢力をもっているのである。
たとえば我々の感覚のごときものでもなお分化発展の余地があるのであろう、この点より見てなお一般的となすこともできる。
これに反し一般的のものでも、発展をそのところにかぎって見れば、個体的ということもできるであろう。
普通には空間時間の上において限定せられたものをのみ個体的と称えている、しかしかかる限定は単に外面的である、真の個体とはその内容において個体的でなければならぬ、すなわち唯一の特色を具えたものでなければならぬ、一般的なるものが発展の極処に到ったところが個体である。
この意味より見れば、普通に感覚あるいは知覚といっているようなものは極めて内容に乏しき一般的なるもので、深き意味に充ちたる画家の直覚のごときものがかえって真に個体的といいうるであろう。
すべて空間時間の上より限定せられた単に物質的なるものを以て、個体的となすのはその根柢において唯物論的独断があるであろうと思う。
純粋経験の立脚地より見れば、経験を比較するにはその内容を以てすべきものである。
時間空間というごときものもかかる内容に基づいてこれを統一する一つの形式にすぎないのである。
あるいはまた感覚的印象の強く明らかなことと、その情意と密接の関係をもつことなどがこれを個体的と思わしめる一原因でもあろうが、いわゆる思想のごときも決して情意に関係がないのではない。
強く情意を動かすものが特に個体的と考えられるのは、情意は知識に比して我々の目的そのものであり、発展の極致に近いからであると思う。
これを要するに思惟と経験とは同一であって、その間に相対的の差異を見ることはできるが絶対的区別はないと思う。
しかし余はこれが為に思惟は単に個人的で主観的であるというのではない、前にもいったように純粋経験は個人の上に超越することができる。
かくいえば甚だ異様に聞こえるであろうが、経験は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である、個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである。
個人的経験とは経験の中において限られし経験の特殊なる一小範囲にすぎない。
私的まとめ
・「AがBする」という判断は、「BするA」を分析した結果
・判断のもとに純粋経験あり
・思惟の作用も純粋経験の一種
・知覚と心像の絶対的区別は無い
・意識する……対象は過去
・内外の区別は相対的
・純粋抽象は意識不可能
・心像なくして思惟なし、思惟は心像に伴う一現象
・知覚と心像も区別不可能
・意識の原始的状態=純粋経験状態
・純粋経験の事実は我々の思想のアルファ且つオメガ
・純粋経験←事実→思惟……見方の別
・純粋経験=思惟(相対的差アリ、絶対的差ナシ)
・真に一般的なものは個体の潜勢力
・経験は時間、空間、個人以上