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森鴎外

「当流比較言語学」(『東亜之光』、明治四十二年(1909)三月)

底本:千葉俊二編『鴎外随筆集』岩波文庫、2000

入力校訂:ピュシス

 

 

 


 ある国民にはあることばが欠けている。

 

 なぜ欠けているかと思って、よくよく考えてみると、それはある感情が欠けているからである。

 

 手近いところで言ってみると、ドイツ語にStreberということばがある。

 動詞のstrebenはもと体で無理な運動をするような心持ちの語であったそうだ。

 それからもがくような心持ちの語になった。

 今ではすべて抵抗を排して前進する義になっている。

 努力するのである。

 勉強するのである。

 したがってStreberは努力家である。

 勉強家である。

 抵抗を排して前進する。

 努力する。

 勉強する。

 こんな結構なことはない。

 努力せよという漢語も、勉強したまえという俗語も、学問や何か、すべて善いことを人に勧めるときに用いられるのである。

 勉強家ということばは、学校では生徒を褒めるとき、お役所では官吏を褒めるときに用いられるのである。

 

 然るにドイツ語のStreberには嘲る意を帯びている。

 生徒は学科に骨を折っていれば、ひとりでに一級の上位に居るようになる。

 試験に高点を贏[か]ち得る。

 早く卒業する。

 しかし一級の上位にいよう、試験に高点を貰おう、早く卒業しようと心掛ける、その心掛けが主になることがある。

 そういう生徒は教師の心を射るようになる。

 教師に迎合するようになる。

 陞進[位がのぼること]をしたがる官吏も同じことである。

 そのほか学者としてはしきりに論文を書く。

 芸術家としてはしきりに製作を出す。

 えらいのもえらくないのもある。

 Talentのあるのもないのもある。

 学問界、芸術界に地位を得ようと思って骨を折るのである。

 ドイツ人はこんな人物をStreberというのである。

 

 Moritz Heyneの字書を開けてみると、Bismarckの手紙が引いてある。

 某は中尉で白髪になっているのだから、Streberであるのも是非がないというような文句である。

 この例も明白に嘲る意を帯びている。

 

 僕は書生をしている間に、多くのStreberを仲間に持っていたことがある。

 自分が教師になってからも、預かっている生徒の中にStreberのいたのを知っている。

 官立学校の特待生で幅を利かせている人の中には、沢山そういうのがある。

 

 官吏になってからも、僕は随分Streberのいるのを見受けた。

 上官の御覚えめでたい人物にはそれが多い。

 秘書官的人物の中に沢山そういうのがいる。

 自分が上官になってみると、部下にStreberの多いのに驚く。

 

 Streberはなまけものやいくじなしよりはえらい。

 場合によっては一廉[ひとかど]の用に立つ。

 しかし信任はできない。

 学問芸術でいえば、こんな人物は学問芸術のために学問芸術をするのでない。

 学問芸術を手段にしている。

 勤務でいえば、勤務のために勤務をするのでない。

 勤務を方便にしている。

 いつ何どき魚を得て筌を忘れてしまう[筌は細い竹で編んで、水中に沈めて魚をとらえる漁具。目的を達すれば、その筌の功は不要となり忘れさられる]やら知れない。

 

 日本語にStreberに相当することばがない。

 それは日本人がStreberwo卑しむという思想を有していないからである。

 

 も一つ同じようなことを言ってみよう。

 

 ドイツ人はsittliche Entruestungということを言う。

 Entruestenという動詞はもと甲[鎧]を解く、衣を卸す[衣を脱ぐ]というような意味から転じて、体裁も何も構わなくなるほどおこることになっている。

 腹を立つことになっている。

 Sittlichはもちろん道義的、風俗的である。

 Sittliche Entruestungというと、あることが不道徳である、背徳であるといって立腹するのである。

 道徳的憤怒と訳してもよかろう。

 約[つづ]めて言えば義憤であろう。

 

 然るに日本語では勉強家というのに何の貶める意味もないように、義憤は当然のことであって、少しも嘲る意味を帯びていない。

 ドイツ語でsittliche Entruestungというと、すこぶる片腹痛い。

 

 このことばはHeyneの字書のEntruestungの条を見ても、Streberということばのように、明白に嘲りを帯びているという説明を加えてはない。

 しかし引例にやはりBismarckの演説が出ている。

 それは論的がBismarckに対して義憤がしたいという需要があるので云々という文句であって、たしかに嘲りを帯びている。

 

 前宮内大臣[田中光顕]が自分より年のよほど若い夫人を迎えようとした。

 実にけしからん。

 衆議院議員が砂糖事件[日糖疑獄事件]で賄賂を取った。

 実にけしからん。

 このけしからんが義憤である。

 日本の新聞は第一面の社説を始めとして、第三面の雑報まで、ことごとくこのけしからんで充たされている。

 ことごとく義憤の文字である。

 

 田山花袋君が『蒲団』を書いた。

 けしからん。

 永井荷風君が『祝盃』を書いた。

 けしからん。

 日本には文芸の批評にも義憤が沢山ある。

 ただ絵画彫刻の裸体に対する義憤だけが、昨今やっとなくなったようである。

 

 自分より遥かに年の若い妻を持つのは、たとい不徳というほどでないにしても、少なくも背俗であろう。

 賄賂を取るのは悪い。

 しかしそれに対してsittliche Entruestungを起こして、けしからんと叫ぶのは、ドイツ人なら、気恥ずかしく思うであろう。

 何故というにもし傍から「その義憤をなさるお前さんは第一の石を罪人に抛[なげう]つ資格がおありなさるのですか」[『新約聖書』「ヨハネ福音書」第八章の一節を踏まえて]といわれると、赤面しなくてはならないと感じるからである。

 そこで義憤ということが気恥ずかしいことになっている。

 それをあえてする人は面皮の厚い人とせられている。

 Sittliche Entruestungということばに嘲りの意味を帯びているのは、こういうわけである。

 

 これは何故だろう。

 これがドイツ人の道義心が日本人より薄いためであるなら、日本人は大いに誇ってよかろう。

 日本人は迷わない人間であろう。

 日本人は誰も彼も道徳上の裁判官になる資格を有しているのであろう。

 実に国家の幸福である。

 

 僕はこの問題に深入りすることを好まない。

 とにかく義憤が気恥ずかしいという感情が日本人に欠けているのは事実である。

 そこで嘲りの意味を帯びたsittliche Entruestungというようなことばは日本にはないのである。

 

 それからさっきちょっといった文芸の批評に出てくる義憤はどうであろう。

 『蒲団』はスケベである。

 Geil[淫らな]である。

 Lascivus[淫奔]である。

 『祝盃』は手当たり放題である。

 尻軽である。

 襤褸買[ぼろかい。相手かまわず女性と関係すること]である。

 Leichtsinnig[軽率な], leichtfertig[軽率な]である、

 Frivolus[ふまじめな]である。

 書いてある事柄は、どちらも悪いに相違ない。

 P.R.B.[ラファエル前派。Pre-Raphaelite Brotherhood]をRuskinが引き立てたように、いわゆる自然派を引き立てた島村抱月君も、『蒲団』を評して、醜のことを書かないで、醜の心を書いたといっている。

 『祝盃』の評はまだ拝見しない。

 醜の心はスケベの心である。

 

 とにかく事柄は悪い。

 しかしこの事柄をけしからんというのが、相手の仮設人物であるために、別に気恥ずかしいはずまに代わりには、それを書いたのをけしからんというのは、書いた動機、書いたBeweggrund[動機]の評になって、作品の評にならない。

 人の行為の動機はわからないものだとKantがいっている。

 芸術家の物を作る動機もおそらくはわかるまい。

 ついでだからいうが、人間の心は醜悪なものだと前極[まえぎめ]をしておいて、醜悪でない心を書くのをposeだとするのも、やはり動機の穿鑿[せんさく]で、あぶない話だ。

 醜悪の心を書くposeur[気取り屋]もないには限るまい。

 

 も一つ今の日本人に欠けていることばについて簡単に話そう。

 

 ほかでもない。

 Sich laecherlich machen[物笑いになる]というドイツ語である。

 もっともドイツには限らない。

 Pose, poseurなんぞというフランス語を必要上から出したから、フランス語で同じことを言ってみれば、se rendre ridicule[物笑いになる]である。

 

 Laecherlichもridiculeも可笑しいということである。

 然るに自分を可笑しくするということばが日本にはない。

 人に笑われるというと、大相意味が軽くなってしまう。

 世の物笑えになるなどということばが古くはあった。

 これはやや似ているようだが、今はそんなことばも行われていない。

 

 西洋人は自分を可笑しくすることをひどく嫌う。

 それだからそのことばがある。

 日本人は自分を可笑しくするのが平気である。

 それだからそのことばがない。

 

 義憤なんぞが好い例である。

 義憤の当否は措いて、何に寄らず、けしからんけしからんを連発するのは、傍から見ると可笑しい。

 日本人がそれを構わずにやるのは、自分を可笑しくすることを厭わないのである。

 

 Maupassantの訳書が発売禁止になるなんぞを見ると、政府もあるいは自分を可笑しくするのを厭わないのではあるまいか。


 

 

 

私的雑評

きっちりオチがついてて笑えます。

表題の通り、鴎外流の比較言語論です。

言語は思考の鏡であるというのが一つの主題ですね。

逆を云えば、思考は言語によって規定されるということ。

1909年というと、ソシュールの言語学を鴎外が知っていたとは考えられませんので、凄まじい炯眼と云わざるを得ませんね。