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森鴎外
「予が立場」(『新潮』、明治四十二年(1909)七月)
底本:千葉俊二編『鴎外随筆集』岩波文庫、2000
入力校訂:ピュシス
現代の思想とか、新しい作者の発達している思想とかいうものについて話せというのですか。
それは私の立場としてすこぶる迷惑です。
もし私が現に批評壇に立っている諸君と同一な思想を持っていたなら、別にそれを発表する必要がないわけないでしょう。
もし変わった思想を持っていたなら、それを発表した結果がどうなるでしょうか。
それについては多少の経験を持っています。
ついどうかした機会に何か言うことがある。
そしてその都度不愉快極まる反響を聞くのです。
昨今は私が何かいうと、愚痴とか厭味とかいってからかわれることになっている。
それだけで何の効果もない。
何の役にも立たない。
人に利益は与えずに、自分が不愉快な目に逢うのみです。
そんなことは私だってしたくはないのです。
現在の文芸界ではactiveに何かしている、重立った諸君は極まっています。
田山君とか、島崎君とか、正宗君とか、それから少し後に仲間入りをしたような小山内君とか、永井君とかいうような諸君でしょう。
それと少し距離のある方面で働いているのは夏目君に接近している二、三人の人くらいなものでしょうか。
小説以外の作品を出していられる諸君は数えません。
そこで私がそういう諸君の下風に立っていて、何だか不平を懐いているものとでも認められているらしく見えます。
私の言うことを愚痴、厭味ときめられている意味はそういう意味かと思います。
おおかたこんなことを言えば、すなわちそれが厭味だというかもしれません。
然らば口を閉じるよりほかはないようなものです。
ところが、私の考えていることは全く違っています。
もっともこの考えていることというのが、告白であるかないか、矯飾[きょうしょく]をしていないかという疑問がすぐに伴ってくる。
もっと立ち入っていえば、自分では云々と考えていると思っても、それは自ら欺いている。
すなわち自己のために自己を矯飾しているのかもしれない。
そんな風に穿鑿[せんさく]してみると、むしろ頭からその考えていることを言わずにおくのが好いかもしれないのです。
しかし何といわれたって、いわれついでだからいいましょう。
私は田山君のようにうまくないといわれても、実際どうでもない。
田山君も正宗君も、島崎君も私よりうまくて一向差し支えがないように感じています。
それは私の方がうまくても困りはしません。
しかしまずくても構いません。
ちっとも不平がない。
諸君と私を一緒に集めて、小学校のクラスの席順のよう並ばせて、私に下座にすわってお辞儀をしろということなら、私は平気でお辞儀をするでしょう。
そしてそれは批評家の嫌う石田少介[鴎外の小説「鶏」の主人公]流とかの、何でもじいっと堪えているなんぞというのではありません。
本当に平気なのです。
私の考では私は私で、自分の気に入ったことを自分の勝手にしているのです。
それで気が済んでいるのです。
人の上座に据えられたって困りもしないが、下座に据えられたって困りもしません。
こういう心持は愚痴とか厭味とかいうことばの概念とはたいへんに違っていると信じています。
いつか私は西洋にあることばで、日本にないことばがある、したがってそういう概念があちらにあって、こちらにないというようなことを話したことがありました。
たとい両方にそのことばはあってもそれが向こうでは日常使われているのに、こちらでは使われていないという関係もあるのです。
これは確かに思想の貧弱な徴候だろうと思うのです。
批評壇が、時を得ていない人は、時を得ている人に対してきっと不平を懐いていて、そんな人の言うことは、厭味、愚痴のほかにないように思うのは、批評家の思想の貧弱ではあるまいかと思うのです。
私の心持を何ということばで言いあらわしたら好いかというと、Resignationだといってよろしいようです。
私は文芸ばかりではない。
世の中のどの方面においてもこの心持でいる。
それで余所の人が、私のことをさぞ苦痛をしているだろうと思っているときに、私は存外平気でいるのです。
もちろんResignationの状態というものは意気地のないものかもしれない。
その辺は私の方で別に弁解しようとも思いません。
こんなことを言っていると、お尋ねに対しては何も言わないで、身勝手ばかりいっているようですが、先ず立場からきめてかからなくては、何もできないのです。
しかしこの立場はやはり一般に認めて貰うことはできないでしょう。
私のこれまでの経験によればできないものだと前からきめておいても差し支えなさそうに思われます。
私だって色々いいたいこともありますが、先ず今日は自分の立場のことだけで御免を蒙りましょう。
多分これも雑誌へお出しになったら、またあいつが愚痴を言う、厭味を言うということになってしまいましょう。
所詮駄目ですね。
どうぞこんな下らない話でも、出すならそっくり出して下さい。
この頃は談話の校正をさせてもらう約束をしても、ほとんど全くその約束が履行せられないことになってきました。
話には順序や語気があって、それで意味が変わってきます。
先ずこの頃談話して公にせられるものは、多くは本人の考とは違うものだと承知していた方が確かなようです。
先日の『文章世界』では千葉君に気の毒な思いをしましたよ。
どうぞそんな間違いのないように、この話はこのままそっくり出して下さい。
私的まとめ
昔、鴎外のこの随筆を読んだときに、甚だ同感しました。
私の基本スタンスも同じです。
「私の考では私は私で、自分の気に入ったことを自分の勝手にしているのです。それで気が済んでいるのです。人の上座に据えられたって困りもしないが、下座に据えられたって困りもしません」