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森鴎外
「俳句というもの」(『俳味』、明治四十五年(1912)一月)
底本:千葉俊二編『鴎外随筆集』岩波文庫、2000
入力校訂:ピュシス
◯
俳句というものをはじめて見たのは十五、六歳の時であったと思う。
父と東京へ出てきて向嶋に住んでいるところへ、母や弟妹が津和野の家を引き払って入り込んで来た。
その時蔵書だけは売らずに持ってきたが、歌の本では、橘守部の『心の種』、流布本の『古今集』、詩の本では『唐詩選』があった。
俳諧の本は、誰やらが蕉門の句を集めた類題[和歌や俳句を類似した題によって集めたもの]の零本[不揃本で、欠巻が多く残存部分が少ないもの]で、秋冬の部だけがあった。
そういう本を好奇心から読み出した。
丁度進文学社という学校でドイツ語を学んでいた片手間であった。
その頃向嶋で交際していた友達は、伊藤孫一という漢学好きの少年一人であったので、詩が一番好きであった。
もっとも国にいたとき七絶[七言絶句]を並べてみる稽古をしたこともあったのである。
『唐詩選』の中の多くの詩は諳[そら]んじていた。
歌は、『心の種』に初心の人の歌だといって、
ふじの山 おなじ姿に 見ゆるかな
かなたおもても こなたおもても
とかいうのがあって、いかに有りのままが好いといっても、これでは歌にならないといってあった。
それを可笑しいと思ったのを記憶している。
俳句は類題の零本を読んで面白いとだけは思っていた。
分かると思う句と、分からぬと思う句とがあった。
その分かると思ったのが、ひどく見当違いであったとは、今から回顧してみても思わない。
生利でものは早く飲み込むことのできる性であったらしい。
秋風や 白木の弓に 弦張らん 去来
という句がひどく気に入って、こんな句がしてみたいと思った。
その後俳句を少ししてみたが、こういう向きの句は一つもできたことがない。
何事によらず、自分のできない方角のものに感服していて、それができずじまいになるのが、性分であるらしい。
◯
父は医書のほかは何も読まない流儀の人であった。
詩や歌や俳句の本がたまたまあったのは、みな祖父の遺物である。
祖父は歌を一番好いていた。
はじめて江戸に上る途中で、
おもひきや さしも名高き 富士のねも
麓を雲の 上に見んとは 綱浄
という歌をよんだ。
それを福羽子爵が半折に書いて、
いと高き しらべなりけり ふじのねに
これもおとらぬ 君がことのは 美静
と書き添えて贈られた掛物が残っている。
漢文は達者に書いたらしいが、詩は一つもない。
俳諧の話は、母が小娘の時によくして聞かせられたということである。
その話は浪人になって大阪にいた時、点取[点取俳諧]ということを人に勧められてしたが、宗匠に不服なのと、どうも無学な人にかなわないのとで、すぐにやめたということであったそうだ。
負けじ魂のあった人らしいので、そう思ったのも無理はないと、微笑まれるような気がする。
宗匠との衝突はこうであった。
茸狩や 落とした櫛を 拾ふ手に
という句を、宗匠が
茸狩や 釵[かんざし]捜す 手にもこれ
と直した。
祖父が、それでは松茸が頭に生えているようだといって、承知しなかったということがある。
祖父の句もあまりうまくはなかったようである。
ただし記憶の誤があるかもしれない。
(あとはまた折があったら書くとしよう)
私的まとめ
「何事によらず、自分のできない方角のものに感服していて、それができずじまいになるのが、性分であるらしい」
鴎外のこの一文が身に凍みます。